就活

 こと就職活動。人生の夏休みいわゆるモラトリアムを終えようとしている私は漠然な不安に直面する。就職活動という言葉の漠然とした感じに私はどうも納得がいかない。意識高めの学生が言うには、目の前にある無限の可能性を探索し、自分の可能性にtryするのだそうだ。その通り、可能性のパターンは無限である。そのほとんどがゼロであったとしても。私は合同説明会の人ごみをかけわきながらゼロの羅列を眺める。あれもゼロ。これもゼロ。私はそれっきり合同説明会にはいかなくなった。

 退屈極まりないと言われる就職活動ではあるが、当初私はむしろ就職活動を楽しんでいた。自己を説明し、フィードバックをもらう。そのやりとりが楽しかった。就活生を演じることで、私は綺麗にはまった社会の部品になれている感じがした。多くの歯車が回る中でもひときわきびきびと連携して動く大きな歯車。そんなイメージをもって話をつづけた。面接を突破するたびにうれしくなった。自分が認められた。正常な人間として認識された。そんな喜びを感じ始めたのはいつのことだろう。

 質問に対して的確に答え、自分の意見を織り交ぜながら考察を述べる。そんな繰り返しのうち、私は自分の滑稽さに気づいてしまった。おまえは私の何を知っているのか。この面接で何がわかるのか。私は何を思ってもいないことを喋っているのか。私の自己同一性(公私の人格の連続性?)に関するこだわりはどうやら強いらしく、あんなに楽しかった就活がこの不快感のおかげで突然楽しくなくなってしまった。くだらない演劇を一人でやっているような惨めな気分になってしまった。

 そんなこんなで失速しながらも内定をいただいた。先日は内定式へと参加し、研修を受けた。社会人は大変だ。あれは研修というより洗脳だ。学生の意見をまとめるといいながら、自分の主張をゆっくりと柔らかくしみこませてくる。周りの人間はさほど不快に思っていないようだ。深入りすると吐き気を催すようなきれいな言葉の並びに若干引きながらも笑顔を作る。肯定も否定もしない返事をして、ヘラヘラする。これが私がこれから生きる世界である。